2014-06-06

バカの見本を記事にするass hole読売

さすが読売! 徹底してますね。バカの見本を手本にしろとでも言うのでしょうか? まさかこの前の判決で再稼動を諦めた訳でもないでしょうに。しかし、インタビューの答は正気の沙汰とは思えません。酷い親ですね。ご本人には悪いのですが、名前が「渡辺」だとか「菅野」だとか、面白い一致です。

もう1回言っときましょう。「馬鹿が、周り(当然含む子ども)を巻き込んで馬鹿のまま死ぬ」のが放射能の怖さですね。
『福島からの避難者 再び原発の地に住宅購入』【6/5 読売】

東京電力福島第一原子力発電所事故を受け福島県から避難してきた人たちで、柏崎刈羽原発周辺に自宅を求める人が増えている。柏崎市の被災者支援施設「あまやどり」によると、購入した人は検討中も含めて27世帯に上る。東日本大震災から間もなく3年3か月。古里への思いは様々だが、国や東電からの家賃補償が打ち切られることも覚悟の上で、生活の場を「原発のまち」に移し始めている。(石橋正洋)

◆子ども成長 安住求め

同県双葉町から避難してきた渡辺浩二さん(44)は2013年11月、柏崎市内に自宅を新築した。自宅は柏崎刈羽原発から約6キロの距離。2階からは原発の施設が見える。しかし、「柏崎でまた事故が起きるなんて考えられない」と気にするそぶりはない。

父親を頼って柏崎市に避難してきた渡辺さんにとって、原発の安全性よりも切迫した問題は、3人の子どもの成長だった。

避難してきたのは震災直後の11年3月15日だった。当時、長男は14歳、長女は3歳、次男は4か月だった。引っ越しした時には、長女や次男が活発に遊び回る年頃になっていた。渡辺さんは「家が狭くて、おもちゃも広げて遊べなかった」と当時を振り返る。

「次男はもちろん、長女も、福島のことは覚えていない」。子どもたちにとっては、柏崎が古里になりつつある。
◆新築しても「帰りたい」

富岡町から柏崎市に避難している菅野千枝子さん(64)も12年11月から、市内に新築した家で生活を始めた。長男夫婦と、壁で仕切られた一軒家で暮らしている。震災直後から、長男夫婦が暮らしていた柏崎市に移り、借り上げアパートで暮らした。しかし、帰還の見込みが立たないことなどから、柏崎市に家を新築することを決めた。原発については「あまり不安はない。柏崎刈羽はより徹底した安全対策をしているはず」と話す。

しかし、新居で生活をするうち、福島への思いが募るようになった。新居の冷蔵庫にはいつも、富岡町の自宅の写真が貼ってある。

今後、いわき市の復興住宅への移住も考えている。「冬でも雪が降らず、外で孫たちを遊ばせることができた。やっぱり元の家がいい。自宅を新築した人も、帰りたいという気持ちはあると思う」と揺れる思いを吐露した。

◆家賃補償なくても

柏崎市によると、原発事故を受けて、同市内には5月末現在、375世帯886人が避難している。調査は、「あまやどり」の職員が1~5月、避難者が暮らす同市内の住宅を訪ねて行った。接触できなかった世帯もあるため、更に多くの世帯が柏崎市や刈羽村に自宅を建てた可能性がある。

避難先に自宅を新築、購入すれば、避難生活が終わったとみなされ、国や東電から家賃補償が受けられなくなる場合が多い。

避難者が経済面では不利になる決断を下す背景について、柏崎市で避難者を支援し続けている増田昌子さん(49)は「福島には戻れないという気持ちもあるのではないか。国が補償に対する明確な方針を示さない中、避難者は苦渋の決断を迫られている。引っ越しても、家を建てても、差別なく補償すべきだ」と指摘している。

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